東京歯科大学の献体の歩み
東京歯科大学 本学は、本邦最初の歯科医学教育機関である高山歯科医学院を前身として、明治23年近代西洋歯科医学の先覚者の一人である高山紀斎により東京の芝区伊皿子町に創立された。昭和56年9月に研究、教育、診療の充実を図るため、東京都千代田区三崎(水道橋)より現在の地、千葉市美浜区真砂に大学が移転し、平成2年、創立100周年を迎えた。献体は昭和31年より解剖学主任教授であられた上條雍薙彦教授が当時の時代状況のもとで、主に、墨田区役所、台東区役所、千代田区役所より身元不明の遺体を数多く預かる状況であった。篤志献体に依存することなく実習体が充足されていたのが実情であった。当時、白菊会の会員は僅か20名余であった。 大学が水道橋より千葉市に移転すると同時に篤志献体の啓蒙に力を注いだ。東京都の各区役所との従来迄の関係は距離的にも無理があると判断し、また時代の流れと地域性から身元不明遺体に実習体確保を依存する時勢でないとの考えであった。 千葉の地に大学が移転したとはいえ、地域性、移転直後、歯科大学ということで、解剖実習とのつながりがなかなかかみ合わず、篤志献体の啓蒙は理解を得るのに時間を要した。市町村役所、養護老人ホームに説明に行っても、関心がいたって薄く、理解と協力が得られる迄には時間がかかった。 千葉は歴史のある、千葉大学医学部の所在地であり、千葉大学白菊会がすでに献体運動を行っていた。右も左も分からない東京歯科大学白菊会を千葉大学医学部をはじめ千葉大学白菊会、前会長:故斎藤利一殿のご協力とご指導を仰いで今日に至っている。水道橋より移転して15年の歳月が経った。学園祭は地域の方々が大学への理解を深めてもらうよい機会となり、また時代背景が献体を理解していただく大きな要因になった。 20名余であった白菊会会員が逐次増えて250名余迄になり理想の会員数になりつつある現状である。毎年行われていた白菊会総会(日比谷公会堂)の出席座席制限が余儀なくされるようになったのを機に白菊会本部より平成7年独立して、東京歯科大学白菊会として献体運動を行うこととなった。地域の方々の理解のもと2/3の会員が千葉県人であるのも15年間の努力が生きずいていることと考えている。 社会情勢、時代背景が「篤志献体」本来の理想理念からのずれを生じ始めていることを痛切に感じる昨今である。 最後に、今日迄に献体された成願者諸霊位に黙祷をいたします。 (東京歯科大学解剖学教室 井出吉信)
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